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薩摩の石組み

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カテゴリ:城の石垣( 9 )


2011年 11月 05日

№146 鶴丸城・二之丸跡

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写真344 鶴丸城二之丸の石垣
■アクセスと歴史背景                 
鹿児島市城山町の国道10号照国神社前交差点から国道を磯方向に約400m行くと県立図書館がある。この敷地周辺が鶴丸城・二之丸跡である。
 鶴丸城・二之丸は藩主の世子や隠居の居宅があった場所とのこと。現在の県立図書館の正門は旧七高時代の門柱で、ここには、以前二之丸御門と呼んだ木造の門があり、天明5年(1785)以後は矢来御門と改称されている。明治10年(1877)9月24日の早朝、西南の役における官軍の攻撃で二之丸は炎上し、築城以来二百数十年続いた屋形の歴史はその幕を閉じた。その後、旧第七高等学校造士館や鹿大医学部のグランドに使用されたが、昭和55年県立図書館が建設され現在に至っている。    【現地案内文】
場所:  鹿児島市・城山町 北緯 31゚35′49″ 東経 130゚33′17″ 
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 写真345 堅牢な二之丸の石組み 高さ約4m

by ishigaki2010 | 2011-11-05 16:51 | 城の石垣
2011年 11月 05日

№144 清水城跡

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写真338 大乗院橋から清水城跡を望む
■アクセスと歴史背景                 
鹿児島市春日町国道10号春日町交差点から北方向に市道を行く。清水小学校を左方向に見て清水小前交差点を右折して約300m行き、稲荷川に架かる大乗院橋を渡ると市立清水中学校正門に着く。学校の背後の山一帯が清水城跡である。
 島津氏は鶴丸城構築築以前、鹿児島における居城を三度変えている。東福寺城は興国4年・康永2年~元中4年・至徳4年の44年間、清水城は元中4年・至徳4年~天文19年の163年間、内城は天文19年~慶長7年の52年間で、約260年の間、上町に薩摩藩の城があったことになる。 【鹿児島市史Ⅰ】
場所: 鹿児島市・稲荷町 北緯 31゚36′42″ 東経 130゚33′56″
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写真339 現清水中校門前の稲荷馬場
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写真340 稲荷馬場に面した石積み 高さ1.75m 6段積み

by ishigaki2010 | 2011-11-05 11:47 | 城の石垣
2011年 10月 07日

№97 長里・鶴丸城跡

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写真217 日置市長里の鶴丸城跡
■アクセスと歴史背景                 
日置市長里の国道3号と県道305郷養母長里線交差点・役場入口から旧東市来町役場方向に約500m進むと鶴丸小学校に着く。この小学校の裏山が鶴丸城跡である。
 市来は中世には市来院と云われて、はじめ院司大蔵氏の支配下にあったが鎌倉時代に惟宗姓市来氏に院司職が譲られ、その後は市来氏相伝の地となった。鶴丸城は市来氏代々の居城であったことから市来城とも云われた。市来氏は南朝方の武将として守護島津氏と対立していたが寛正3年(1462)7代久家の時に島津立久に屈服した。その後、城は伊集院忠朗、新納康久が守っていた。天文19年(1550)、ザビエルが鹿児島から平戸に行く途中、鶴丸城に滞在している。        【鹿児島県の歴史散歩】  場所: 日置市東市来町・長里 北緯 31゚39′33″ 東経 130゚20′58″ 
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写真218 鶴丸小学校正門脇の18段積み石垣 高さ6.2m

by ishigaki2010 | 2011-10-07 17:39 | 城の石垣
2011年 08月 16日

№70 根占・国見城跡

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写真158 国見城搦手口内堀跡の標柱だけが建っている             
■アクセスと歴史背景                  m
国道269号根占町二町から古殿方向にに約3km進むと高台の城内集落に着く。ここが国見城跡である。
 この高台は阿多カルデラ火砕流堆積物の溶結凝灰岩で覆われ、標高約160m、南北約300m~700m、東西約1200mの細長い台地である。台地端から錦江湾岸までは直線距離で約1km。国見城の名のとおり桜島から錦江湾口まで遠望可能で、築城に絶好の位置にある。国見城は弥寝家第7代弥寝清成が1321年に築城したとされ、別名を「白山三鴻之城」と云い、城内(じょうね)という字名が城の名残として現在に残っている。 【現地案内文】
場所: 根占町・城内 北緯 31゚13′42″ 東経 130゚47′29″
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  写真159 この石垣は大正・昭和初期のものと思われるが、廃屋が目立ち世の移り変わりが淋しい

by ishigaki2010 | 2011-08-16 10:25 | 城の石垣
2011年 05月 16日

№41 鶴丸城跡そのⅡ

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錦絵に描かれた大手門左側     角の石積み目地(山内多門)鶴丸城跡は現在、県歴史資料センター黎明館、県立図書館、鹿児島医療センター等の敷地となっている。鶴丸城は西回りの薩摩街道出水筋(西田橋~水上坂~伊集院~出水)、東回りの薩摩街道大口筋(吉野台地~白銀の坂~加治木~龍門司坂~大口)の起点であったのであろう。近くの西本願寺角には明治35年(1902)に建てられた鹿児嶋縣里程元標が現存している。
 鶴丸城の楼門と石橋と石垣が描かれている一枚の絵がある。それは宮崎県都城出身の日本画家山内多門が制作した、明治神宮聖徳記念絵画館壁画の一つ「明治五年明治天皇鹿児島御入城の図」である。画中の石積みの目地と現地の目地とは一致していない。    【黎明館資料・東市来町郷土誌】
場所: 鹿児島市・城山町  北緯 31゚35′ 54″  東経 130゚33′20″
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現在の鶴丸城大手門左側角の石積み
 明治神宮外苑聖徳記念館壁画の一つで、錦絵「明治五年明治天皇鹿児島御入城の図」がある。これは石原紫山(1905~1978)が山内多門の下絵を油絵で模写した(1958作)もので、図1はこの絵に描かれた鶴丸城大手門左側の石積みの目地である。現地の写真86の目地とは明らかに相違している。現在の石垣は、明治10年の西南の役で石垣が崩れ積み直した可能性もあり得る。なお、錦絵と対比するのが、そもそも無理なことかも知れない。

               
       

by ishigaki2010 | 2011-05-16 20:39 | 城の石垣
2011年 04月 17日

№28 東福寺城跡

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大正12年に建てられた東福寺城跡の碑
鹿児島市清水町の祇園之洲西口交差点から祇園之洲公園に向い約200m程行き、そこから坂を登り詰めると多賀山公園に着く。この丘陵部一帯が東福寺城跡である。
 東福寺城の東・南は錦江湾が広がり、西は稲荷川が流れ鹿児島の上町一帯が展望できる。標高は約100mで、天然の急峻な山城である。この城は鹿児島郡司矢上氏の一族、長谷場永純が天喜元年(1053)に築いたもので、南北朝時代(1336~1392)の1343年に出水の山門院から鹿児島入りした島津家5代島津貞久が暦応4年(1341)激戦の末、東福寺城を攻め落として鹿児島を治める初めての根拠地とした。その後、8代島津元久の時代に、現在の清水中学校敷地とその裏山の清水城に移った。      【現地案内文】
場所: 鹿児島市・清水町 北緯 31゚36′29″  東経130゚34′15″
 
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 東福寺城は11世紀に日向、大隅、薩摩で初めて築かれた山城

by ishigaki2010 | 2011-04-17 15:15 | 城の石垣
2010年 11月 29日

№11国分舞鶴城址・こくぶまいづるじょうし

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南に水堀、北に山を擁した舞鶴城跡
■霧島市国分広瀬西の国道10号交差点を起点とする県道60号国分霧島線を北へ約3.4km進み、国分中央1丁目交差点を東南方向に約400m行くと舞鶴城跡に着く。
 舞鶴城は慶長9年(1604)島津義久が築城した。義久は隼人の富隈城からここに移り、慶長16年(1611)に亡くなる迄ここを居城とし、義久亡き後は三女亀寿姫がこの城で過ごした。城は濠を隔てて池之馬場に面し周囲は野面石積みで囲まれている。また、島津斉彬は幕末の頃、鹿児島の鶴丸城が海に近接し国防上問題があるとして、ここ舞鶴城に移転を検討したと伝えられている。現在は国分小学校と県立国分高校敷地となっている。                     【鹿児島県の歴史散歩】
場所:霧島市国分中央、東経130度46分24秒、北緯31度44分26秒。
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島津義久没後、舞鶴城には三女亀寿姫が寛永7年(1630)に亡くなるまで、ここに居住した。

by ishigaki2010 | 2010-11-29 11:41 | 城の石垣
2010年 11月 20日

№10富隈城址・とみくまじょうし

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霧島市隼人町浜之市の国道10号と国道223号の交差点を野口方向に約200m進むと国道223号の東側が富隈城跡である。現在は稲荷神社、公園、住宅地、NHKのアンテナ鉄塔敷地となっている。
 富隈城は島津義久が文禄4年(1595)に築造した屋形造りの城で、義久が慶長9年(1604)に国分の舞鶴城に移るまでここを居城とした。城は東西約150m,南北約250mの小高い丘を石垣と堀で囲んで造られ、野面積み技法で積まれた石垣は肥後八代の種山の石工達が築いたと云われている。標高32mの丘からは姶良カルデラを形成する錦江湾奧と桜島が展望できる。 場所:霧島市隼人町住吉、東経130度44分12秒、北緯31度43分38秒      【現地案内文】
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野面積み技法で積まれた石垣は肥後八代種山の石工が築いた。400年の時が経過した石工達の技が今に残る。

by ishigaki2010 | 2010-11-20 11:43 | 城の石垣
2010年 10月 10日

№2平松城址

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背後に山城・岩剣城跡がある
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姶良町脇元の国道10号から県道57号麓重富停車場線を吉田町麓に向かって約800m進み、ここを左折すると平松城跡に着く。
 平松城の築城時期は不詳だが、島津義弘は慶長11年(1606)帖佐から、ここ平松に移り加治木に移るまでの居城とした。その後、義弘夫人や義弘の娘御屋地様が住んだ。時代は移り元文2年(1737)には重富郷が創設され、平松城は越前島津家の領主の舘となった。明治維新後はこの地に重富村役所や平松小学校が置かれたが、現在は重富小学校となっている。城跡は周囲約650mを高さ約2m(正面)の野面石積みで囲まれ、北側正面には幅11m、長さ約280mの「館の馬場」が現存している。また近くには岩剣城跡、岩剣神社、円明院跡、狭霧神社、愛宕神社、越前島津家菩提寺紹隆寺跡等の史蹟がある。【姶良町郷土誌】
場所:東経130度36分16秒,北緯31度42分22秒。

by ishigaki2010 | 2010-10-10 14:15 | 城の石垣