薩摩の石組み

ishigumi.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:武家屋敷( 20 )


2011年 10月 26日

№125 平佐の麓屋敷

e0206650_21212062.jpg


写真290 ひっそりとたたずむ平佐の麓屋敷
■アクセスと歴史背景                 
JR川内駅前から県道333号川内祁答院線を川内駅裏に向かって約400m行き、ガードを潜って左折し平佐西小学校脇を約300m進む、さらに右折して60mの所に平佐の麓屋敷がある。
 平佐町字藤崎、寄待、八幡馬場、庵ノ城の平佐西小学校や川内駅一帯が平佐城(別名 諏訪之城、是枝城)跡である。その沿革は建久年間(1190頃)薩摩郡本郡司薩摩太郎忠友の居城で、忠友-忠持-忠国-忠任-忠氏と続き、その後は不詳。天正15年(1587)平佐の地頭・桂神祗忠昉は僅かな手兵で豊臣秀吉とこの城で戦い、豊臣軍を辟易させたと云われている。その後、時代は経過して平佐地区は北郷氏の私領となり明治を迎えた。                        【川内市史・下卷】
場所: 薩摩川内市平佐麓 北緯 31゚48′49″ 東経 130゚18′50″ 
e0206650_21281338.jpg

写真291 風化が進む麓屋敷の石垣 高さ1.35m,4段
[PR]

by ishigaki2010 | 2011-10-26 21:29 | 武家屋敷
2011年 10月 26日

№124 隈之城の麓屋敷

e0206650_2185999.jpg


写真288 岩永三五郎築造の石橋 径間2m,拱矢1.6m,リング厚34cm
アクセスと歴史背景                 
薩摩川内市東向田町の国道3号川内駅前交差点から、旧国道3号をいちき串木野市方向に向かう。約2kmで隈之城交差点に着く。ここに隈之城の麓屋敷がある。
 隈之城郷の郷士集落は、宮崎、隈之城麓、尾白江にあり、その地頭館は隈之城麓に置かれたと云われている。なお、当屋敷の前を流れる小水路には、鹿児島市の甲突五石橋を架けた肥後の石工岩永三五郎が造ったと云われる石造アーチ橋が架かっている。川内の平佐郷は大工頭・阿蘇鉄次右衛門鉄矢の出身地である。阿蘇鉄也は岩永三五郎と組んで藩内の石造橋、河川改修、干拓などを手掛けていることからも頷ける。因みに、川内地区には、江ノ口橋(現存)、降来橋(現存)、仏生橋、妹背橋など由緒ある石橋が数多く架けられている。                       【川内市史・上卷】
場所:  薩摩川内市・隈之城 北緯 31゚47′39″ 東経 130゚18′36″
e0206650_21144462.jpg
 

写真289 古色蒼然たる古き時代の石垣 高さ2.5m,9段積み
[PR]

by ishigaki2010 | 2011-10-26 21:15 | 武家屋敷
2011年 10月 17日

№115 知覧・武家屋敷群

e0206650_2219299.jpg

写真262 知覧武家屋敷・佐多直忠邸■アクセスと歴史背景                 
南九州市市役所、旧知覧町役場前の県道23号谷山知覧線南側一帯は昭和56年に知覧伝統的建造物保存地区として国の選定を受けた。
 知覧は南薩の小京都と云われ、かつては佐多氏の私領であったが、知覧麓の本馬場通り、城馬場通り等の区画道路は18世紀中頃知覧領主の島津久峰の代に造られ、武家屋敷群が形成された。本馬場通りを挟んで、7つの庭園が現存し知覧武家屋敷庭園として名勝に指定されている。森重堅邸庭園は築山池泉式庭園であるが、西郷恵一郎邸庭園他6庭園は大刈り込みと石組みを配した枯山水庭園で、標高517mの母ヶ岳が借景に取り入れられ当時の武家社会の品格を感じる庭園群である。      【現地案内文】      場所: 南九州市・知覧麓 北緯 31゚22′44″ 東経 130゚26′46″ 
e0206650_17293330.jpg
 
 
写真263 石敢當がはめ込められた石垣 高さ1.25m,10段
[PR]

by ishigaki2010 | 2011-10-17 22:38 | 武家屋敷
2011年 10月 15日

№107 喜入麓屋敷

e0206650_22514394.jpg

写真240 麓の家臣団の一つと思われる屋敷 
■アクセスと歴史背景       
鹿児島市喜入町の国道226号日石前から指宿方向に南下して、「道の駅喜入」の少々手前から八幡川左岸の旧道に入り喜入消防署を右折して約200m行くと喜入小学校に着く。更に小学校正門前から西へ約350m進むと肝付家家臣団の一つと思われる、いかにも古い屋敷が残っている。
 肝付家4代肝付兼屋は承応2年(1653)、旧麓からこの地に新たに館を築造し、家臣達もここに集まり麓を形成するに至った。
場所: 鹿児島市・喜入町  北緯 31゚22′25″  東経130゚32′19″   
e0206650_22551460.jpg
 


写真241 往時の面影を残している古い石垣 高さ1.3m,5段積み
[PR]

by ishigaki2010 | 2011-10-15 22:56 | 武家屋敷
2011年 10月 12日

№104 加世田麓・武家屋敷

e0206650_22282727.jpg

写真233 下ん仮屋の武家屋敷        
■アクセスと歴史背景                 
南さつま市本町の国道270号と国道226号の交差点、市役所前交差点から南の枕崎方向に約400m進むと加世田麓・下ん仮屋の武家屋敷がある。
 加世田郷1万3千石の政治の中心地麓には、別府城を取り巻いて二百数十軒の武家屋敷が在ったと云う。石垣とイヌマキの生け垣と武家門、玄関に通じる直角に曲がった通路、目隠しの生け垣は薩摩藩時代の武家屋敷の名残を今に残している。                    【加世田市史・下巻】                場所:  南さつま市・麓 北緯 31゚24′48″ 東経130゚19′06″ 
e0206650_22323232.jpg


  写真234 水路沿いの堅牢な石垣
e0206650_22375850.jpg


写真235 創建当時のものと思われる石垣
[PR]

by ishigaki2010 | 2011-10-12 22:39 | 武家屋敷
2011年 10月 07日

№98 樋脇・武家屋敷

e0206650_1751778.jpg

写真219 庭木と屋根門が調和のとれた樋脇の武家屋敷
■アクセスと歴史背景                 
薩摩川内市樋脇町塔之原の樋脇支所から県道335号市比野東郷線を東郷町方向に約600m進み、ここから右折して市道を樋脇川下流の庄内方向に約400m進むと樋脇の武家屋敷がある。
 入来院は文禄4年(1595)豊臣秀吉の転封政策により菱刈郡湯之尾に移された。万治2年(1659)第18代重頼のときには浦之名、副田は入来院の私領となり、塔之原、市比野、倉野、中、久住、楠元の各村は新清色として分離し外城となった。これに伴い179人の郷士は塔之原へ屋敷の移転が行われた。元禄16年(1703)元村新田用水路が竣功すると、下流の塔之原八幡山付近に転居していた64戸の郷士屋敷は開田のため、また移転を余儀なくされ現在の麓地域に転居したと云う。当時の住居、門構えなどは殆ど改築、改造され、ただ屋敷割り、玉石垣、庭園、武家門などが僅かに昔の面影を留めている。
                                     【樋脇町史・下巻】
場所: 薩摩川内市・塔之原 北緯 31゚49′30″ 東経 130゚22′46″ 
e0206650_17562049.jpg


写真220 重厚な武家屋敷の石垣は健在
[PR]

by ishigaki2010 | 2011-10-07 17:57 | 武家屋敷
2011年 10月 05日

№94 串木野麓・武家門

e0206650_21315486.jpg

写真211 串木野麓の武家門
■アクセスと歴史背景                 
いちき串木野市大原町の国道3号と県道39号串木野樋脇線の大原交差点を針原方向に約1.4km行くと2級河川五反田川左岸の麓地区に着く。
 串木野の薩摩街道は出水筋、伊集院筋にあたり、別府の八房橋のたもとから八房、下名を通り、更に北上して袴田、鳥井ヶ原から麓に至り五反田川を渡って浅山、薩摩山、金山に至るルートである。麓中央には串木野城跡があり、その周辺には武家屋敷の名残がある。        【串木野市郷土史】
場所: いちき串木野市・麓 北緯 31゚43′29″ 東経 130゚17′00″ 
e0206650_21383548.jpg


写真212 往時が偲ばれる武家屋敷の石垣 高さ1.3m
[PR]

by ishigaki2010 | 2011-10-05 21:39 | 武家屋敷
2011年 09月 30日

№91 串木野麓屋敷

e0206650_20491455.jpg

写真204 五反田川右岸の浅山から左岸の麓を通る街道筋 ■アクセスと歴史背景                 
いちき串木野市大原町の国道3号と県道39号串木野樋脇線の大原交差点を針原方向に約1.4km行くと2級河川五反田川左岸の麓地区に着く。
 麓地区には串木野城跡、地頭館跡、長谷場純孝生誕の地、武家屋敷があり屋敷の石垣がその名残を留めている。場所:串木野市・麓 北緯 31゚43′29″ 東経 130゚17′02″ 
e0206650_20541845.jpg

 
写真205 高さ175cmの雑石積み
[PR]

by ishigaki2010 | 2011-09-30 20:55 | 武家屋敷
2011年 09月 13日

№84 熊陣馬場

e0206650_13561963.jpg

写真188 武家屋敷が並ぶ野田郷・熊陣馬場 ■アクセスと歴史背景                 
出水市の肥薩おれんじ鉄道野田郷駅から県道368号荒崎田代線を南に行くと、野田小学校がある。この付近から天神に至る約1000mの区間を熊陣馬場と云う。
 熊陣馬場は薩摩街道出水筋で歴代薩摩藩主が参勤交代時に通った道路であった。また、ここには野田郷の地頭仮屋が置かれ、郷行政の中心地で、郷士の居住集落でもあった。熊陣の地名は応永29年(1422)に島津氏8代久豊が木牟礼城を攻める為、球磨人吉の相良実長に援軍を要請し、その軍勢が山門院に攻め入りこの地に布陣したことにあると云う。               【野田町郷土誌】
場所: 出水市・野田町 北緯 32゚03′21″ 東経130゚16′00″
e0206650_143582.jpg


 
写真189 石積みは野面石の矢羽積工法
[PR]

by ishigaki2010 | 2011-09-13 14:05 | 武家屋敷
2011年 08月 30日

№78 志布志麓

e0206650_21175529.jpg

写真176 地頭仮屋の北西角裏門前の石垣■アクセスと歴史背景                 
志布志市市街地から県道65号南郷志布志線を北に向かうと志布志小学校に着く。
 小学校背後の内城は城山と呼ばれ、島津氏久、元久及び新納家累代の居館の跡である。藩政時代、志布志地頭政治の中心となった地頭仮屋は島津氏久以来の居館の様式をそのまま伝え、藩公御座の間、大広間、御番所、伺候所、結所、兵具蔵、焔硝蔵などがあったと云う。地頭仮屋の正門(現在小学校西側正門の所)には大門があり、大門前通りは犬の馬場と呼ばれ犬追物の催された場所であった。大門の内側は広場(現小学校下校庭)で弓場があり、裏門は旧内城の大木戸に当たる岩坂山下家の門前にあり、新納家裏門とも伝えられている。                     【志布志町誌・上巻】
場所: 志布志市・若宮 北緯 31゚28′ 57″ 東経131゚ 06′25″             
e0206650_21233894.jpg


写真177 堅牢な古い石積みは遠き歴史を偲ばせる
[PR]

by ishigaki2010 | 2011-08-30 21:24 | 武家屋敷