薩摩の石組み

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2011年 05月 27日

№46 島津家菩提寺・福昌寺跡

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福晶寺墓地の山手にはキリシタン墓地がある             
 鹿児島市大竜町の県道25号鹿児島蒲生線の坂元入口交差点を北へ約300m進むと鹿児島市立玉龍高等学校に着く。ここが明治初年の廃仏毀釈で廃寺となった島津家の菩提寺・福晶寺跡である。
 玉龍山福晶寺は応永元年(1394)島津一族の石屋真梁禅師を開山に島津家7代元久が建てた寺である。福晶寺墓地には島津歴代(6代~28代)とその一族と福晶寺歴代住職の墓石がある。また明治2年(1869)に長崎浦上のキリスト教徒375人が捕らえられ福晶寺に収容されたが、この地で病死した58人のキリシタン墓地も福晶寺の背後山手にある。                     【鹿児島県の歴史散歩】
場所: 鹿児島市・池之上町 北緯 31゚36′38″ 東経130゚33′44″ 
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日本三大僧録所で最盛期には1,500余人の修行僧が居たと云う巨大寺院福晶寺跡

            
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by ishigaki2010 | 2011-05-27 13:35 | 神社仏閣
2011年 05月 25日

№45 小松帯刀下屋敷跡

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臥竜梅の古木が残る
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 石垣の高さ約4m
 鹿児島市城西の原良本通りを原良団地に向かって進むと掛越交差点に着く。更に約50mほど進み左折して路地を約150m進み、その突き当たりに梅の古木が残る小松帯刀の下屋敷跡がある。
 小松帯刀(1835~1870)は喜入領主肝付家の三男として生まれ、20歳で吉利家の領主小松家の養子となり小松帯刀と名を改めた。27歳で家老となり改革派として藩政に参画し、西郷隆盛、木戸孝允と共に薩長連合の締結に活躍した。慶応3年(1867)将軍徳川慶喜に大政奉還を進言した幕末の志士である。明治元年(1868)に新政府の総裁局顧問に就任したが翌年大阪において34歳の若さで病に倒れた。                                   【鹿児島県の歴史散歩】
場所:鹿児島市・原良町 北緯 31゚35′40″ 東経130゚31′50″
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坂本竜馬も訪れたという小松帯刀下屋敷跡の石垣 
       
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by ishigaki2010 | 2011-05-25 14:19 | 武家屋敷
2011年 05月 24日

№44 江田邸屋敷跡

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江田邸があった水上坂の旧薩摩街道              
 鹿児島市常葉町の市道水上坂・横井線の常磐バス停から水上坂を約500m登ると道路右側に江田邸屋敷跡がある。
 ここは鹿児島市東千石町の鹿児嶋縣里程元標を起点とし、甲突川の西田橋を渡り、西田本通り、常磐町、水上坂を経て伊集院、出水に至る参勤交代時代の薩摩街道出水筋にあたる。
江田家は薩摩藩の中級武士の家柄で、安政4年(1857)江田国雅は藩主斉彬の時、御鉄砲奉行役、御使番役であった。約200年前に造られた江田邸は今は無く、江田家は神当流馬術の師範家であったと云われ、当時の主屋などの配置図は記録として残っている。現在、屋敷跡の確認は難しいが、水上坂沿いの僅かに残る石垣にその名残を見るこが出来る。                  【鹿児島のおいたち】
場所: 鹿児島市・常磐町 北緯 31゚35′22″ 東経130゚31′40″ 
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江田邸跡の石垣が薩摩街道・水上坂沿いに僅かに残っている 









 
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by ishigaki2010 | 2011-05-24 21:19 | 武家屋敷
2011年 05月 24日

№43 島津家玉里別邸跡

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 島津久光国葬の時に造られた玉里邸黒門
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女子高校正門脇の説明版
鹿児島市下伊敷の国道3号玉江橋東口交差点から北東に走る市道を約500m直進すると、鹿児島市立女子高等学校に着く。ここが島津家玉里別邸跡である。
 国道3号から別邸に至る道路は国葬道路と呼ばれ明治20年(1882)島津久光の国葬時に造られたものである。玉里邸は第27代薩摩藩主島津斉興が天保6年(1835)造営した別邸で、隠居後に移り住んだ屋敷である。その後明治10年の西南の役で焼失したが、斉興の子久光が明治12年(1879)に再建してここを住居とした。本邸は昭和20年(1945)には太平洋戦争時の戦火により焼失したが、庭園、茶室、武家長屋が残った。敷地は東西200m,南北150mで創建当時は芝土手で囲まれていたが、創建後十数年経って石垣に造り替えられ由。「玉里御茶屋外廻り芝土手石垣に仕調え方五百両」の記録があると云う。
 【鹿児島県の歴史散歩・現地案内文】
場所: 鹿児島市・玉里町 北緯 31゚36′42″ 東経130゚32′20″
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黒門東側の石塀             









       
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by ishigaki2010 | 2011-05-24 08:54 | 石垣
2011年 05月 19日

№42 鶴丸城の石垣とアコウの木

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鶴丸城二之丸の石垣と樹高10mのアコウの木
 鶴丸城に沿った現在の国道10号の「館之馬場通り」には整然とイヌマキの街路樹が植えられ、鯉が泳ぐ石垣沿いの水路やメトロ調のアーク灯は「歴史と文化の道」の命名に相応しい道路景観を提供している。また、石垣に巻き付いたアコウの気根は自然を身近に感じることが出来る貴重なエリアでもある。
 鶴丸城の石垣の石材は溶結凝灰岩で、吉野火砕流堆積物の「たんたど石」(産地・吉野町帯迫より南部の台地斜面)や、加久藤火砕流堆積物の「郡山石」(産地・甲突川上流の郡山町)が使用されている。県立図書館敷地の国道10号沿いの歩道沿いの石垣にはアコウが着生して巨木となっている。アコウは紀伊半島以南から四国、九州、南西諸島の海岸付近に分布し、幹から気根が延びて独特の形態をとる常緑樹である。
                                 【鶴丸城跡保全工事報告書】
場所:鹿児島市・城山町 北緯 31゚35′49″ 東経130゚33′18″
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生命力逞しいアコウの気根は石垣に幅5mも絡みついている  
   
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by ishigaki2010 | 2011-05-19 21:16
2011年 05月 16日

№41 鶴丸城跡そのⅡ

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錦絵に描かれた大手門左側     角の石積み目地(山内多門)鶴丸城跡は現在、県歴史資料センター黎明館、県立図書館、鹿児島医療センター等の敷地となっている。鶴丸城は西回りの薩摩街道出水筋(西田橋~水上坂~伊集院~出水)、東回りの薩摩街道大口筋(吉野台地~白銀の坂~加治木~龍門司坂~大口)の起点であったのであろう。近くの西本願寺角には明治35年(1902)に建てられた鹿児嶋縣里程元標が現存している。
 鶴丸城の楼門と石橋と石垣が描かれている一枚の絵がある。それは宮崎県都城出身の日本画家山内多門が制作した、明治神宮聖徳記念絵画館壁画の一つ「明治五年明治天皇鹿児島御入城の図」である。画中の石積みの目地と現地の目地とは一致していない。    【黎明館資料・東市来町郷土誌】
場所: 鹿児島市・城山町  北緯 31゚35′ 54″  東経 130゚33′20″
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現在の鶴丸城大手門左側角の石積み
 明治神宮外苑聖徳記念館壁画の一つで、錦絵「明治五年明治天皇鹿児島御入城の図」がある。これは石原紫山(1905~1978)が山内多門の下絵を油絵で模写した(1958作)もので、図1はこの絵に描かれた鶴丸城大手門左側の石積みの目地である。現地の写真86の目地とは明らかに相違している。現在の石垣は、明治10年の西南の役で石垣が崩れ積み直した可能性もあり得る。なお、錦絵と対比するのが、そもそも無理なことかも知れない。

               
       
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by ishigaki2010 | 2011-05-16 20:39 | 城の石垣
2011年 05月 15日

№40 鶴丸城跡そのⅠ

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史跡 鶴丸城跡・石造欄干橋と大手門 
鹿児島市城山町の国道10号と市道草牟田城山線に接した一角に鶴丸城跡がある。
 鶴丸城は77万石の島津氏の居城として第18代島津家久が慶長7年(1602)築城した。石垣は蓮の花が咲く濠に面し、大手門には創建当時の石造欄干橋が架かっている。明治維新後、ここには熊本鎮台第二分営~尋常中学造士館~第七高等学校造士館が置かれた。戦後は鹿児島大学文理学部~鹿児島大学医学部となったが、医学部は昭和49年(1974)鹿児島市宇宿町に移転した。跡地には昭和54年(1979)に県立図書館新館が竣工。昭和58年(1983)には県歴史資料センター黎明館が建てられた。 【鹿児島県の歴史散歩】 場所: 鹿児島市・城山町 北緯 31゚35′43″ 東経 130゚33′29″ 
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城郭の東北隅は鬼門に当たるため隅角部に凹部が設けてある 
    

     
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by ishigaki2010 | 2011-05-15 21:28
2011年 05月 15日

№39 西南の役の弾痕

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 明治十年戦役 彈痕の碑
かごしま県民交流センター北西側、国道10号沿いのこの石塀に囲まれた敷地は藩政時代は鶴丸城の厩があった所である。
 厩跡は、騎兵所~厩~軍馬方を経て明治7年(1874)に私学校が設立されたが、明治10年(1877)に勃発した「西南の役」で焼失した。明治15年(1882)に県立鹿児島医学校及び付属病院、明治40年(1907)に県立鹿児島病院、昭和18年(1943)に県立医学専門学校付属病院となった。さらに昭和33年(1958)に鹿児島大学医学部付属病院を経て、現在は国立病院機構・鹿児島医療センターとなっている。石塀には「西南の役」の激しい戦火による弾痕が残り、今から約130年前の薩摩軍と政府軍の死闘が偲ばれる。【鹿児島大学医学部付属病院跡記念碑文】
場所: 鹿児島市・城山町 北緯 31°35′45″ 東経130゚33′32″
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石垣に残る彈痕 西郷隆盛は明治10年(1877)9月24日城山の地で最後を遂げた 
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by ishigaki2010 | 2011-05-15 15:45 | 石垣
2011年 05月 14日

№38 私学校跡の石塀

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大正11年3月に建てられた私学校跡の碑 
鹿児島市山下町の国道10号沿いに国立病院機構鹿児島医療センターがある。ここが私学校跡である。
 ここは第18代薩摩藩主島津家久が慶長7年(1602)に築城した鶴丸城の厩跡で、明治維新後は陸軍騎兵所軍馬方となり、明治7年(1874)には西郷隆盛が県令大山綱良の協力を得てここに私学校を設立した。「西南の役」では薩摩軍と政府軍との間で死闘が続き私学校は明治10年9月17日焼失した。なお、この石塀は昭和30年(1955)の国道10号拡幅工事に伴い後方に移設復元された経緯がある。【鹿児島県の歴史散歩】
場所: 鹿児島市・城山町 北緯 31゚35′59″ 東経130゚33′25″
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 私学校跡の石塀 高さ3.7m,延長約350m              
    
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by ishigaki2010 | 2011-05-14 21:23
2011年 05月 09日

№37 鹿児島港の石造倉庫群

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店舗に活用されている石造倉庫 大正7年(1918)上棟・間口30m×奥行き35m 

国道214号鹿児島港線のボサド桟橋交差点付近から城南町方向に約300m行くと、進行方向の左側、住吉町一帯に石造倉庫群を見ることができる。
 鹿児島港は薩摩藩時代から奄美、沖縄、台湾、中国等との航路が発達し、明治40年には国の重要港湾の指定を受けている。従って港の背後地には荷物保管場所としての倉庫が必要とされた。現存する14棟の石造平屋建て倉庫群は大正から昭和初期にかけて建造された。石蔵は本来の穀物等農産物の貯蔵庫として使用されいるものがある他、最近では、店舗・喫茶店・食堂等に活用されている。
 【鹿児島県の近代化遺産】 場所: 鹿児島市・住吉町 北緯 31゚35′23″ 東経130゚33′44″    
 
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大津倉庫の南面・21段積み
                      
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by ishigaki2010 | 2011-05-09 18:10 | 石造倉庫