薩摩の石組み

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2011年 06月 25日

№55 湧水町・幸田の棚田

 湧水町・栗野幸田の主要地方道53号菱刈横川線と県道443号幸田栗野線交差点から西南方向に町道を約2.5km走ると、山際に見事な棚田が広がっている。
 幸田の棚田は江戸時代中期に造られたものと云われ、「日本棚田百選」にも選ばれている。棚田は鹿児島県内に、頴娃町佃、加世田市堀切、吹上町与倉、金峰町田ノ平、佐多町伊座敷、入来町内之尾、樋脇町太平、出水市木地山など各地に現存している。近年、棚田の消滅が各地で見受けられるが、季節ごとに創出される農村の原風景がいつまでも受け続がれることが望まれる。       【九州の棚田】
場所:湧水町・幸田頭 北緯 31゚55′33″ 東経130゚39′21″ 
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写真120 見事な石積みが築かれた幸田の棚田e0206650_21343243.jpg

                                               写真121 初夏の棚田風景
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写真122 法長4.2mの野面石積み
 
             





       
        
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by ishigaki2010 | 2011-06-25 21:44
2011年 06月 12日

№54 栗野・松尾城跡

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本丸への登坂口の石組み階段
 湧水町役場から東下場方向に約800m行くと心光寺に突き当たる。このお寺の山手側、標高249mの丘に栗野・松尾城跡がある。
 松尾城は天正18年(1590)に島津義弘が飯野城からここに移り、帖佐に移る迄の5ヶ年間ここを居城とした。なお、文禄元年(1592)の朝鮮遠征はこの城から出陣した。築城方式は甲州流によるものと云われ、石積みは極めて堅牢で往時の荒々しい山城の面影を今に伝えている。   【現地案内文】
場所: 湧水町・木場 北緯 31゚57′08″ 東経130゚43′59″ 
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 安山岩系の石で築かれた石垣
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 控長1.3mの堅牢な石組み
            
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by ishigaki2010 | 2011-06-12 19:56
2011年 06月 11日

№53 入来武家屋敷跡

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 犬ノ馬場の茅葺門と整然とした区画に沿った石垣群   
 薩摩川内市入来町麓地区の旧国道328号沿いに玉石で囲まれた入来武家屋敷群がある。
この地区は面積約19.2haが入来麓伝統的建造物保存地区となっている。入来麓は中世山城である清色城を背景として、その山裾に地頭館(お仮屋)を置き、東を流れる樋脇川(清色川)との間の平地を中心に居住地域としている。石垣と生垣に囲まれた屋敷群は落ち着いた居住環境を今に伝えている。なお、藩政時代のお仮屋は、その後鹿児島藩第三郷校を経て現在は入来小学校敷地となっている。【現地案内文】
場所: 薩摩川内市・入来町麓 北緯 31゚48′ 18″ 東経130゚ 25′57″    
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 玉石垣と生垣を組み合わせた入来麓の武家屋敷
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by ishigaki2010 | 2011-06-11 22:13 | 武家屋敷
2011年 06月 08日

№52 入来地頭仮屋跡

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 史跡清色城跡・鹿児島藩第三郷校跡
  薩摩川内市入来町麓地区の旧国道328号沿いの入来支所に隣接して入来小学校がある。
 ここは、清色城・別名入来城と称され、中世入来院渋谷氏の居城があったところである。この山城は14世紀末頃の築城と推定され、南北約650m、東西約840m、東南北の三方を樋脇川(清色川)が自然の堀を形成し、高さ780mの断崖が堅牢な山城を形成していた。山城の東麓には領主居館があり藩政時代は同所を仮屋と称した。仮屋跡は明治の廃藩後、入来小学校敷地となり現在に至っている。【入来町誌・下巻】
場所: 薩摩川内市・入来町麓 北緯 31゚48′12″ 東経130゚25′56″ 
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集落に残った古い石蔵
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 お仮屋馬場に面した屋敷跡
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 玉石垣と生垣を特徴とする入来の石垣
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by ishigaki2010 | 2011-06-08 09:42 | 御仮屋跡
2011年 06月 05日

№51 平佐東小学校の石垣

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平佐東小学校の校門付近の石垣 高さ5.5m                         薩摩川内市の旧樋脇町役場から県道335市比野東郷線を東郷に向かって約4km行くと薩摩川内市吉野山の平佐東小学校に着く。
 吉野山での学校教育は明治3年(1870)に吉野山に校舎を建て、当地方の士族の子弟を集めて岩満利右ヱ門が授業を行ったのが始まりである。明治5年に第二八郷校中村分校が開設され、明治9年に中村小学校と改称、同12年に校名を旭小学校に改め、更に明治19年旭尋常小学校と改称した。
 明治20年(1887)校舎を現在の場所に定め、区民の勤労奉仕によって丘陵を整地して敷地を造成して移転新築を完了させた。現在の校門付近の石垣はその当時築かれたものと思われる。その後明治31年に平佐東尋常小学校、昭和16年には国民学校に改称。昭和22年(1947)に川内市立平佐東小学校となり今日に至っている。                                 【平佐の歴史】
場所: 薩摩川内市・吉野山 北緯 31゚50′12″ 東経130゚21′42″                          
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この石垣は明治20年頃に築かれたものと思われる
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by ishigaki2010 | 2011-06-05 19:49 | 石垣
2011年 06月 04日

資料1 石積み様式 №26~№50 資料2 石積み様式の分類 №26~№50 

石積み様式、石材寸法、加工度合を表にしました。
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石積み様式を分類しまし。
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by ishigaki2010 | 2011-06-04 13:01 | 石組みの分類
2011年 06月 04日

№50 朝暘小学校の石垣

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 川床城の朝陽門から朝陽小学校と名付けられた
  薩摩川内市入来町の県道42号川内加治木線と国道328の交差点を藺牟田温泉方向に約3km進むと舟越の朝陽小学校に着く。
 朝陽小学校の歴史は古く、明治25年(1892)に布泊簡易科小学校が県令により朝陽小学校と改称された時に始まった。朝陽は近くの川床城の別名でその城門を朝陽門と称していたことに由来すると云う。
明治42年に義務教育が6ヵ年になったために敷地拡張と校舎改築がなされ、総工事費5,576円で明治43年(1910)に竣工している。現在の石垣はこの時に築造されたもので、舟越善七、吉永庄蔵の両氏が手がけた石組みの名作と伝えられている。                        【入来町誌】
場所: 薩摩川内市・入来町 北緯 31゚47′15″ 東経 130゚28′21″
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 城郭の風格が漂う朝陽小学校の石垣
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by ishigaki2010 | 2011-06-04 09:34 | 石垣
2011年 06月 03日

№49 大口城麓の武家屋敷

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大口市上之馬場の薩摩藩郷士屋敷
 大口市戸切の大口市役所の東側、大口小学校の南側の上之馬場に武家屋敷がある。この付近は旧大口城の西側に展開する城下町で、新納忠元が大口地頭の頃の地頭屋敷は現在の大口小学校敷地にあったと云う。
 大口市上之馬場の武家屋敷は江戸中期に建てられたもので、鏝頭形鉄鋲が打たれた樟の一枚板の門扉や玉石を使用した石垣、三棟連結の母屋等が昭和50年に国指定の重要文化財として保存されている。屋敷内のイヌマキの樹齢から推定すると創建後300年以上経過していると云われている。【大口市郷土誌】
場所:大口市・戸切 北緯 32゚03′25″ 東経130゚36′55″     
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玉石を使用した石垣が質実剛健な趣を漂わせている
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by ishigaki2010 | 2011-06-03 20:33 | 武家屋敷
2011年 06月 02日

№48 伊敷の旧45聯隊跡 そのⅡ

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旧練兵場北側の高さ1.5mの扶璧式石垣と石蔵
  旧45聯隊の兵舎と練兵場の敷地面積は約30ha以上はあったと云われている。当時の面影を残すものは、敷地を囲む扶璧式石垣と、給水塔と思われる石造塔、現県立短期大学正門の旧45聯隊営門跡にある楠の巨木だけである。                           【鹿児島県の歴史散歩】       場所: 鹿児島市・下伊敷 北緯 31゚36′50″ 東経130゚32′08″       
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付属看護学校の北東側石垣,8段高さ2.55m
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高さ2.5m,扶璧間隔約3mの堅固な石垣
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旧聯隊敷地内に残る石造給水塔?
   
  


      


   
写真104
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by ishigaki2010 | 2011-06-02 20:24 | 石垣
2011年 06月 02日

№47 伊敷の第45聯隊跡 そのⅠ

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 旧45聯隊の営門跡は県立短大の正門
 鹿児島市下伊敷の国道3号玉江橋東口交差点を更に約450m北に進むと鹿児島県立短期大学前に着く。この右手一帯が旧陸軍歩兵第45聯隊と練兵場跡である。
 旧日本陸軍の第6師団歩兵第45聯隊は熊本で編成され、明治30年(1897)3月に鹿児島縣伊敷村の新兵舎に到着した。以後、明治、大正、昭和の半世紀にわたってここに旅団司令部、聯隊本部、兵舎、練兵場が置かれ旧日本陸軍の南九州の拠点であった。昭和20年(1945)の敗戦後、この広い敷地は県立短期大学、鹿児島盲学校、付属看護学校、玉江小、伊敷中、鹿児島西高、等の文教地区となった。【鹿児島百年】
 場所: 鹿児島市・下伊敷  北緯 31゚36′48″ 東経130゚31′57″
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               日露戦争から太平洋戦争までの戦いを秘める鹿児島聯隊之址と刻まれた石柱
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by ishigaki2010 | 2011-06-02 10:22