薩摩の石組み

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2011年 09月 30日

№91 串木野麓屋敷

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写真204 五反田川右岸の浅山から左岸の麓を通る街道筋 ■アクセスと歴史背景                 
いちき串木野市大原町の国道3号と県道39号串木野樋脇線の大原交差点を針原方向に約1.4km行くと2級河川五反田川左岸の麓地区に着く。
 麓地区には串木野城跡、地頭館跡、長谷場純孝生誕の地、武家屋敷があり屋敷の石垣がその名残を留めている。場所:串木野市・麓 北緯 31゚43′29″ 東経 130゚17′02″ 
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写真205 高さ175cmの雑石積み
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by ishigaki2010 | 2011-09-30 20:55 | 武家屋敷
2011年 09月 29日

№90 二福城・武家屋敷

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写真201 二福城跡地 ■アクセスと歴史背景                 
薩摩川内市隈之城町の国道3号と県道336号山田隈之城線交差点を隈之城小学校方向に入り、小学校角を右折して約100m進むと二福城跡に着く。
 二福城、別名隈之城は鎌倉時代の初期に薩摩郡軍司薩摩太郎忠友の居城で、その後鎌倉時代を通じ薩摩氏一族が居城した。室町時代になると隈之城は総州島津氏領となり、応永26年(1419)永利城の戦いに破れた島津忠朝が永利からこの城に移ったが、2年後の応永28年、島津忠国の攻撃を受け落城。当地は島津直轄領となりその後、入来院氏領~薩州島津氏押領、再び入来院氏領~島津直轄領(地頭島津家久)と変遷し、元和元年(1615)一国一城令により廃城となった。         【現地案内文】    
場所:  薩摩川内市・隈之城 北緯 31゚47′35″ 東経 130゚18′45″    
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写真202 二福城麓の武家屋敷
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写真203 二福城麓の武家屋敷石垣 高さ80cm
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by ishigaki2010 | 2011-09-29 16:09
2011年 09月 28日

№89 平佐城跡

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写真199 欅・楠の大木が茂る平佐城跡
■アクセスと歴史背景                 
薩摩川内市平佐町の県道333号川内祁答院線沿いの平佐西小学校一帯が平佐城跡である。
 平佐城は別名を諏訪之城、是枝城とも云い、平佐町藤崎・寄待・八幡馬場・庵ノ城あたり一帯が城跡である。建久年間(1190年頃)薩摩郡本郡司薩摩太郎忠友の居城。忠友~忠持~忠国~忠任~忠氏と続くが、以後は不詳。その後、平佐地区は北郷氏私領となつて明治を迎えたと云う。【川内市史・下巻】
場所: 薩摩川内市・平佐  北緯 31゚48′41″  東経 130゚18′51″
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   写真200 平佐城跡の創立136年を迎えた平佐西小学校 石垣は6段積み,高さ1.75m 
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by ishigaki2010 | 2011-09-28 13:25
2011年 09月 19日

№88 峰ヶ城跡

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写真197 峰ヶ城跡は現在の峰山小学校付近一帯
■アクセスと歴史背景                 
薩摩川内市若松町の隈之城川に架かる母合橋から川内川左岸の県道43号川内串木野線を下流に約5km進むと高江町内場に着く。ここから約300m北方向に峰ヶ城跡がある。
 現在の峰山小学校の後方高台にかけての地が峰ヶ城跡である。別名を峰山城と云い、14世紀頃の山城である。城の沿革は島津家6代の島津師久が薩摩守護職に任ぜられた時、家臣山田式部三郎忠房を居城させ、元亀元年(1570)には入来院重嗣がこの地を島津義久に献じている。   【川内市史・下巻】
場所: 薩摩川内市・高江町 北緯 31゚49′34″  東経 130゚15′13″
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写真198 峰山小学校の石垣・隣接して古い石垣に囲まれた護国神社がある
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by ishigaki2010 | 2011-09-19 11:35
2011年 09月 18日

№87 長崎堤防

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写真195 17世紀に築造された長崎堤防護岸■アクセスと歴史背景                 
薩摩川内市若松町の隈之城川に架かる母合橋から川内川左岸の県道43号川内串木野線を下流に約8km進むと高江町長崎の長崎堤防に着く。
 第19代藩主島津光久は小野仙右衛門を普請奉行に任じ、この地の大規模な干拓工事を命じた。延宝7年(1679)に着工し、約8年の歳月を費やして貞享4年(1687)に竣工した。川内川左岸高江地区のこの広潟は、周囲3里、堤防の長さ360間(640m)開発された新田の面積が300町歩にも及ぶ立派な水田に生まれ変わり、そしてこの堤防を長崎堤防と呼んだ。仙右衛門は苦心の末、鋸の刃のような形の堤防を考案して、川内川の激しい水流を抑えることができたと伝えられている。この鋸の刃状の突起部は7ヶ所あり、潮流の調節をなすもので、工学的に価値あるものと云われている。         【現地案内文】
場所 : 薩摩川内市・高江町  北緯 31゚49′43″ 東経 130゚14′10″ 
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写真196 木曽川治水に先立つこと約70年前の薩摩藩の治水工事
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by ishigaki2010 | 2011-09-18 17:13
2011年 09月 16日

№86 たんたど石の石積み

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写真192 石切場跡地屋敷の石積みは12段 高さ4m
■アクセスと歴史背景                 
鹿児島市柳町の国道10号柳町交差点から市道を北に向かう。大龍小の西側のバス路線を池之上町、鼓川を通過して約1.5kmで「たんたどバス停」に着く。このバス停の北西の山が、かつて「たんたど石」を採石していた石切場である。現在は住宅地となっている。
 「たんたど石」は約50万年前の吉野火砕流堆積物の溶結凝灰岩で、鶴丸城石垣や武之橋(1993年流失)のアーチ石・壁石、仙巌園の反射炉基礎石などに使われている。       【鹿児島県資料】
場所: 鹿児島市・皷川町  北緯 31゚36′59″  東経130゚33′47″ e0206650_163929.jpg

写真193 たんたど石の石切場跡
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写真194 石切場跡の民家の石積みは「たんたど石」と推定される
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by ishigaki2010 | 2011-09-16 16:42
2011年 09月 14日

№85 西方御仮屋跡

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写真190 西方御仮屋跡 
■アクセスと歴史背景                 
薩摩川内市西方の国道号3号と県道339号東郷西方港線の交差点から阿久根方向に約300m行くと白沢津の三叉路に着く。ここから西方港へ向かって約150m進むと市道左側に西方御仮屋跡がある。
 西方御仮屋は慶長7年(1602)に当時藩主島津家久により設置され、現在の潮見寺を含む一帯にあったとされている。西方御仮屋の北西約200mには異国船の通行を監視する遠見番所も設置されていた。川内市内を通る参勤交代のルートには陸路と海路があり、海路の時は向田から川船で京泊まで下り、そこから船で大阪まで行き、陸路を経て江戸へ向かったと云う。なお、潮見寺は真宗本願寺派のお寺として明治17年に設立されいいる。                 【川内市教育委員会・現地案内文】    場所 薩摩川内市・西方 北緯 31゚54′53″  東経130゚13′22″
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写真191 西方御仮屋跡を囲む石塀
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by ishigaki2010 | 2011-09-14 10:07
2011年 09月 13日

№84 熊陣馬場

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写真188 武家屋敷が並ぶ野田郷・熊陣馬場 ■アクセスと歴史背景                 
出水市の肥薩おれんじ鉄道野田郷駅から県道368号荒崎田代線を南に行くと、野田小学校がある。この付近から天神に至る約1000mの区間を熊陣馬場と云う。
 熊陣馬場は薩摩街道出水筋で歴代薩摩藩主が参勤交代時に通った道路であった。また、ここには野田郷の地頭仮屋が置かれ、郷行政の中心地で、郷士の居住集落でもあった。熊陣の地名は応永29年(1422)に島津氏8代久豊が木牟礼城を攻める為、球磨人吉の相良実長に援軍を要請し、その軍勢が山門院に攻め入りこの地に布陣したことにあると云う。               【野田町郷土誌】
場所: 出水市・野田町 北緯 32゚03′21″ 東経130゚16′00″
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写真189 石積みは野面石の矢羽積工法
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by ishigaki2010 | 2011-09-13 14:05 | 武家屋敷
2011年 09月 12日

№83 切通番所跡

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写真186 今では木立の中の切通番所跡
■アクセスと歴史背景                 
出水市の肥薩おれんじ鉄道米ノ津駅から国道3号を熊本県境に向かって約4km走ると前田三叉路に着く。ここから海岸沿いに市道を約150m進むと、銀杏、イスノキ、イヌビワが茂る屋敷内に切通番所跡がある。
 薩摩街道のうち出水筋は最も重要な街道で、江戸時代末期に出水地区には野間関、米之津津口番所、福之江浜番所があり、通行人の取調べや通行税の徴収をおこなっていた。切通番所は肥後からの間道に当たる要所の辺路番所で、国境であるため定番人として郷士が駐在したと云う。   【出水郷土誌】
場所:出水市・前田 北緯 32゚09′17″ 東経130゚21′49″
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  写真187 控長210cmの石積みが番所の名残を留めている
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by ishigaki2010 | 2011-09-12 15:46 | 石造構造物
2011年 09月 05日

№82 出水假屋門

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写真184 出水小学校校門となった御仮屋門  
■アクセスと歴史背景                 
出水市本町の県道374号出水高尾線の起点から市道を約300m南に下ると、麓町の出水小前交差点に着く。ここを左折して約300m行くと出水假屋門が在る。現在は出水小学校の校門となっている。
 島津義弘はこの武家門を、居城していた帖佐から出水に移し、出水へ隠居して薩摩北辺の守りに任じたいと思っていたが義弘の移住は実現しなかった。しかしながら、以後この地に御假屋が置かれ、出水假屋門として今に残っている。                【出水市教育委員会・現地案内文】
場所: 出水市・麓町 北緯 32゚04′30″ 東経130゚21′34″ 
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写真185 御仮屋馬場に面した石垣が往時の面影を色濃く残している
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by ishigaki2010 | 2011-09-05 23:29 | 御仮屋跡